世界は数百年に一度の変化を経験している。2018年の春、瞬く間に東アジアにもかつてない変化が現れた。そんな中、教育部が認定した重要な国別研究拠点—上海交通大学日本研究センターが生まれ、歴史の車輪の轟音の中で遠くからの呼びかけが聞こえてきた。
上海交通大学の前身である南洋公学は、甲午海戦後に設立された国策大学堂である。1901年に東文学堂が開設され、日本語通訳の専門人材を養成するために青年才能を募集して育成した。20世紀の最も有名な教育家である蔡元培氏は南洋特班担当に就任し、日本の書籍の講読を通じて近代化の専門知識を伝授し、社会変革の英才を育成した。1902年、20世紀の最も有名な出版家である張元済氏の訳書院は、日本の大型法律叢書『日本法規大全』を翻訳し、世界からの注目を浴びた。25種類80冊、計400万字で、現代の国家制度と法律のほとんどの知識領域を網羅した。1992年、日本の天皇は史上初めて中国を訪問し、本学の徐匯キャンパスを視察した。2010年以来、日本経団連は長期的に凱原法学院の企業法務の研究と交流を支持してきた。このような悠久な歴史の記憶と知識の伝統により、上海交通大学は日本に対する国別研究を重視している。
季衛東
日本はわが国の一衣帯水の隣国である。しかし、両国の社会心理的な距離は、時には遠く離れていることを認めざるを得ない。2千年に及ぶ長い歳月の中で、日本は憂患意識に基づいて絶えず中国から技術、制度と文化の栄養を吸収し、と同時にずっと独立を保持している。十九世紀半ばから二十世紀半ばまでの約百年間、日本は近代化の諸施策を迅速に推進して欧米列強の加盟に成功し、かつて「大東亜共栄圏」という名の下、中国やその他のアジア諸国を侵略し、深い歴史的な傷を残した。第二次世界大戦後、日本は経済的に復活し、世界的な投資大国と技術大国となり、一時的にアジア太平洋地域の主導権を握る勢いもあった。中国の改革開放は両国関係にハネムーンの時期をもたらし、両国の有識者の共同努力の下、互恵とウィンウィンの良い局面もあったが、1990年代半ば以降の中国の復興は、アジアはもとより世界の既存の構造を変えた。それ以来、両国の関係も複雑になり、微妙になってきている。中日平和友好条約40周年は、両国に回顧、反省及び関係修復の重要な契機を提供し、北東アジアの経済統合と秩序再構築の将来性を示した。
この激変の過程で、日本は中国に対する全面的な、繊細な、深い観察と分析をし、一部の成果(例えば台湾調査材料、満鉄調査資料等)は依然として政治家の企画提案に贵重な資料を提供している。しかし、これに対し、中国の日本研究は不十分で、不精確で、体系化されていない。このような情報の非対称性は必然的に中国の対日外交、経略アジア及びグローバル・ガバナンスの効果に参与することを妨害し、中国が自身をはっきりと認識し、絶えず改革、革新及び超越を推進することをも妨害する。今日、私たちは日本を適切に認識するために、次の三つのツール性の基本的な枠組みに注意しなければならない。
(1)海洋アジアと陸地アジアを区別する枠組みである。海洋アジアとは、一般的に自由経済と民主政治の体制を取るアジアの沿岸国家を指す言葉で、開放性と改革性があり、日本は海洋アジアのリーダーとされている。陸地アジアというのは、長い間、中国を代表的な国とし、閉鎖的で、内向的で、伝統を守ってきたと考えられてきた。しかし、1970年代末以降、中国の対外的な経済成長は南シナ海の島礁の主権が蚕食されていくのと並行して進み、ついにこの民族の海洋意識を呼び覚ました。法律制度のレベルでは、そのランドマークが1992年の領海および毗连区法の制定、1996年の国連海洋法条約の許可、2005年郑和下西洋600周年記念を契機に「中国の航海日」の設立、2009年の上海国際配送センター计画の実施、2010年海島保護法の発効、2013年以降の「経略海洋」、「海洋強国」、「海上シルクロード」の戦略配置の推進、等々。つまり、中国の改革開放、特に1990年代以来の海への一連の戦略的展開は、この認識論の枠組みを壊しつつある。
(2)経済融合が軍事警戒と並行する枠組みである。1970年代末から中国は改革開放の時代に入り、欧米や日本各国はこれを歓迎した。しかし中国のWTO加盟後、経済にさらにグローバル市場の体制に溶け込んで、次第に拡大している。欧米各国の不安は日増しに増えてきた。戦後、米国のアジア安全保障政策は欧州とは違い、NATOのような集団軍事体制の構築ではなく、両国の同盟関係を確定した。これは中国に機会を提供したが、米国と日本の右翼保守勢力は軍事手段を使って中国の経済成長の勢いを抑制しようとした。具体的な表現は、いわゆる「政冷経熱」現象である。このような特殊の構図で、どう新しい安全保障観を通してアジア隣国の疑いを払拭する、あるいは逆にいかに密接な経済協力関係を通じて(例えば日中韓自由貿易地帯、アセアン10+3の自由貿易地帯など)政治と軍事上の壁を壊し、アジア各国の過剰防衛心理による軍備競争を避けることは中国がずっと努力し解決しようとする問題である。
(3)歴史を忘れず、未来へ向かい、お互いに依存することを忘れない枠組みである。カイロ宣言、ポツダム宣言の延長線上で、日本に戦争と武力行使を放棄し、東京裁判の結果を認めてもらったことは終戦を迎えた世界の基本的な立場である。日本の返事は、戦後の平和憲法を公布し、武装と交戦権を放棄し、日本と米国の安全保障条約を通じて平和憲法の実効性を維持していることである。このような歴史認識と平和憲法は、戦後アジア秩序の礎石であり、中国が戦争賠償を放棄し、日中平和友好条約を締結するための前提条件でもある。が、1978年靖国神社にA級戦犯の供奉、1985年8月15日中曽根康弘元首相名義の公式靖国神社への参拝を始め、日本の一部の政治家は歴史観を改正しようとする心が次第に露出し、絶えず中日関係の緊張を集めた。特にある重要な政治家は、2013年3月に東京裁判を否定する発言という事実は、過去は過ぎ去ったのではなく、今の一部として絶えず改めて現れることを証明している。この過去も中国やアジア各国が将来に向ける動機に影響する。このような変化にどのように対応することは、中国の対日外交政策の重要な課題であり、中国のアジアにおける配置にも影響を及ぼす。
前述の分析に基づいて、上海交通大学の日本研究センターは学内外の各種資源を統合し、近い将来、国内でトップクラス、国際的に有名な日本の総合研究拠点と政策シンクタンクになるように絶えず努力します。この機会をお借りして、長い間本センターの設立に多大な力を貸してくれた中日両国の各業界の方、大学内部と外部の友人に感谢の意を表したいと思います。これからも皆様と協力し、アジア、ひいては世界の平和と繁栄に貢献しましょう。